高次元科学の誘惑 — Is this an elephant in the room?

似たことを考えている記事を見つけて嬉しくなってしまいました。

「高次元科学への誘い」
知る人ぞ知る日本のユニコーン、Preferred NetworksのCSOである丸山宏氏による記事です。

研究キャリアわずかに6-7年(研究で自力で食えるようになってからは4-5年)という未熟な自分が言うのもおこがましいですが、同じような魂の遍歴を経験しています。僕の科学キャリアは「古典的」な帰納的な科学と統計学アプローチにはじまり、大量のデータからコンピュータによって法則を探索するデータ科学(Tony Heyらの言う「The foruth paradigm (第4の科学)」)に移行しています。

そこで従来の還元主義の限界にぶち当たり、ラボのミッションにある通りシステム的アプローチから人体の健康と疾患(例えば小児喘息のメカニズムと一次予防)を捉えるようになりました。そこではシステムを決定するモデルがそのまま超高次元であることを仮定します。その方法として任意の高次元・非線形で相互関連する関数を近似できる深層学習を適応するようにもなりました。ただしこの過程で僕らの認知の限界と科学の関係を考えざるをえなくなりますー例えば、この研究の行き着く先および得られる結果は僕らの理解を超えてしまうはずです。小児喘息のメカニズムや環境因子・マイクロバイオーム・人体免疫システムの相互作用を完全にモデルできたとしても、その超高次元変数の非線形な相互作用を少なくとも僕には理解することはできないでしょう。もちろん、それを解釈可能な次元(たかだか3次元空間とか)まで落とし込むことは実用的な科学としては大事なことです。さらには因果推論においては仮定を明示し推定量を定め、それをよりよくデータより推定するという方向での機械学習の応用はこれまた大事です。

しかし、もし「科学」が普遍なものであるという仮定をおくならば、僕たちに理解しうる問題から理解しうる結果を求めるアプローチでしか「科学」をしないことは正しいあり方でしょうか。任意の高次元・非線形な関数をモデルする方法や計算機能力を得たのに、たかだか僕らホモ・サピエンスの知性レベルで「科学」を縛っていいのでしょうか。その一方で理解を追求する自然科学を断念してもいいのでしょうか。新しい「理解」を推進するパラダイムを追求できるのでしょうか。

あまり理解されそうもないので心にしまっておいた疑問でした。でも実は “an elephant in the room”で皆気づきながら黙っているのかもしれません。とにかく同じような考えを読んで嬉しくなり、この記事を書きました。

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